もののあわれ ~京都編~

2017年末には京都国立博物館で大規模な『国宝展』が、明くる2018年の1月からは東京の国立博物館で『仁和寺と御室派のみほとけ』展が開催され、再び王朝文化が花開き始めたように注目されている京都ですが、ここ数年でかつての「王朝の雅」のイメージとは全く違う新しく生まれ変わった京都も随所で感じられます。

今年のお正月には、久しぶりに清明神社に参拝させていただきました。しかし、ここでも時代の流れと共に刻印される大きな変化をじかに目にして、戸惑う事が多々ありました。

2006年頃、初めて訪れた時は、神社の隣にはまだ古い織物屋さんがありました。一階のショーウィンドウには織物の反物やネクタイなどが展示されていましたが、一歩中に入るとそこには京都特有の奥へ続く細い土間があって、そこで安倍清明ゆかりのお土産なども販売していてとても楽しかったという記憶があります、けれど、その場所は今ではもう駐車場になってしまい、建物はなくなってしまいました。

また、神社境内も様変わりしていました。

10年前にはまだささやかな感じがして参拝客もまばらで神社の静寂さが奥ゆかしく、とても清々しい心持になれたのですが、今年のお正月は参拝客でごった返し、昔のイメージはまったくありませんでした。

昔は、お守りなどの授与所も1か所だけで、あの頃の映画『陰陽師』の成功を祈願した映画関係者の絵馬などが飾られていて、それを眺めたりして楽しかったのですが、今年はそんなこともできませんでした。

本殿の前の呼び鈴も、混雑を予想してか4つも用意してありとても驚きました。

お守りの授与所は2つに増えていて、長い行列で順番を待ってようやくいただけました。

 

また神社には大きな木があって、たしか「欅」と表示されていたように思います。

はじめは普通に植えられている木だと思っていたのですが、どうやらとても神聖なご神木らしく何人もの参拝者が木の幹を抱いて熱心にお祈りしていました。

ケヤキの木は月に生えていると想像されている木らしいので、そういうことから神社のご神木になっているのかもしれません。

「木」と言って思い出すのは、2017年末に神戸の方で話題になっていたクリスマスツリーのヒノキですが、同じように木として生まれてきてもずいぶん違う運命をたどらなければならなかったのだなとしみじみとした気持ちになりました。

 

タイトルの「もののあわれ」とは、まさに平安の王朝文化をそのまま言い表したような美しい言葉だと今も思っています。

多くの戦乱や戦禍に巻き込まれながらも、透徹した眼と一貫した美意識を持ち続け、そこに暮らす人々の一人一人が普段の暮らしを丁寧に大切に生きていると感じられる場所。

訪れるたびに、そうした高い美意識に心が正されるような場所。

そうした京都にも、時代の大きな波のうねりの中で変わらざるを得なくなっていくときの、はかなげで見つめなければすぐに消え去っていってしまうような何かを、少しでも見つけて私なりに伝えていければ有難いなと思っています。